【インタビュー】album 1999

――4月のワンマンライブ「虎虎」はどうでしたか?

にしな:「『虎虎』は大阪と東京をやったんですけど、大阪は初ワンマンだったので緊張しました。キーボードの松本ジュンさんと一緒にステージに立つのも初めてだったりしたので、そういうドキドキ感もあったし。でも2回目のワンマンだし、よりお客さんと楽しむにはどうしたらいいんだろうみたいなことを考えて。どういうふうに見えるのか、ノルとなったら座っているより立ってもらったほうが楽しめるかも知れないね、じゃあどうやって立ってもらおうか、盛り上げていこうかみたいなことを考えながらの2回目だったので、うまくいかないことももちろんあったけど、得たものもあったし、メンバーと一緒に作るんだっていうこともすごく感じました」

――もともと弾き語りから始まったわけじゃないですか。それがバンドでやるようになって、楽曲的にもいろんな幅が広がっていく中で改めて弾き語りをやってみて、どういう気持ちでしたか?

にしな:「これだけで立てる自信っていうか。ギターを持てば成り立つ音楽なんだって自分に対して思えるのは自信に繋がりますよね。そういうものなのかなあという気がします」

――歌とギターだけでちゃんと成立する曲を作れてるんだ、みたいな。

にしな:「うん。そしてそれを好きだって言ってくれる人がいるんだっていうこと」

――ああいう形が にしな の原点というか、最初の姿で。そこからどんどん進化や変化をしてきて今があるわけですけど。そういう中で今回、その始まりの地点で作った「青藍遊泳」がリリースされるというのにも意味があるなと思うんです。この曲は にしなさんにとってはどういう曲なんですか?

にしな:「一番はすごい『自分自身の曲』っていうか。誰かの曲になるようにって書いたっていうよりも、自分自身のことを書いていってできあがった曲なんです。だから、書いたときから時間は経ってますけど、今でも『今書いた』って思えるぐらい、自分の曲だなって思う。だからこそ誰かにとってもそう思ってもらえるのかなあと思います。私、にしな としてデビューする前は、弾き語りをずっとやりつつ、同時にバンドやユニットもやっていたんです。でもこの先は1人でずっとやっていくって決めて。それでメンバーと一緒にやるラストライブがあったんですけど、そのライブの終わりのBGMでスタッフさんがユニコーンの『すばらしい日々』を流してくださったんです。その時は知らなかったんですけど、後で話したら『あの曲は にしな に贈ったんだよ』っていうことだったらしくて。それで、そうだったんだと思って歌詞を読んだら、あの曲の最後に〈君は僕を忘れるから そうすればもう すぐに君に会いに行ける〉っていう歌詞があるじゃないですか」

――うん。

にしな:「すごくいい曲だなって思ったのと同時に、この曲を贈ってもらった身として、お別れはすごく寂しいけど、みんなのことを忘れちゃうぐらい夢中になって目の前のことをやれる自分でいたいし、そうあるべきなんだなと思ったんですよね。それで書きました」

――1人でやるって決めたのは、何か理由なり決意なりがあったんですか?

にしな:「まあ、1人でやっていくっていうのはずっと軸としてあったんです。その枝わかれでたまたまいろんな形があって。だからいろいろやっている途中も、ずっと1人が軸ではあったんですけど、なんだろうなあ……気持ちとしては、ここから先自分に一番何が必要かなって思ったときに、にしな としてもっといい曲を書けたらいいし、もっといい歌を歌えたらいいなって思って。そこにすべてを注いでいきたいって思ったのが一番の理由かなって思います」

――なるほど。この曲って、それ以降に書かれた にしな の曲とは明らかに手触りが違いますよね。すごく素直に書いているというか。物語や世界観を描こうというものではなくて、素朴に出てきたものをそのままメロディと歌詞にしている感じがする。

にしな:「書いたときのことをしっかり覚えているわけではないんですけど、確かにすごく素直に気持ちを書いていたような気がします。悲しかったぶん……悲しいというか、たとえば卒業なんかもそうですけど、絶対その先もあるけど、その一瞬はすごく切なかったり、嬉しい気持ちも含まれた悲しさみたいなものがあるじゃないですか。その気持ちが大きかった分、進みたい気持ちも膨らんではいたという感じだったのかな」

――まさに「卒業」だったんだなと思うんですよね。〈門出の夜に忍び込んで 青いプール金魚を放とう〉という情景って、すごく青春的じゃないですか。

にしな:「そうですね」

――そういう日々を過ごして、仲間と一緒に音楽をやったというのは にしなさんにとって大きい?

にしな:「本当に遡れば、私が音楽始めた瞬間からみんな結構そばにいて。みんなの姿を見て私もやってきたんです。やりたいことを恥ずかしげもなくやっていいんだって思わせてくれたのがみんなだった。どう影響を受けたのかっていうのはうまく言えないですけど、音楽をやっている今があるのはみんながいてこそだというのはすごく思います。何かが欠けてたら、また違う今なのかもしれないなって」

――そういう曲を今回セカンドアルバムに入れるっていうのにはどんな意味合いがあると思いますか?

にしな:「でも、この曲ってファーストアルバムを出した直後ぐらいにレコーディングしているんです。だから2枚目に入れるぞっていう気持ちでやったっていうよりも、本当に自然な流れで、今回アルバムに入ることになったっていう感じなんですけど……意味があるとすれば、1枚目のアルバムもすごくありのままであったんですけど、1枚目を出してからここまでの期間に苦しいこともいろいろあって、前よりもありのままの自分を見てもらおうっていう気持ちがすごく高まったんです。『こう見られたい』とか『こう思ってほしい』ということよりも、自分は自分に素直でいて、そこから出てくるものを自分も楽しみにして、聴いてくれる人もそれを楽しみにしてくれたら嬉しいなっていう気持ちでやってこれた1年間だった。きっとこれからもいろいろあるけど、この自分が今は好きだし、ここからまっすぐ進めそうっていう気持ちは自分のどこかで感じているんです。そういう意味では2枚目に『青藍遊泳』が入るというのは、考えていたことじゃないけど、すごく自分にとっても意味をもたらしてくれるのかなって思ったりします」

――その気持ちの象徴みたいな曲ですよね。ちなみにこの曲で〈永遠に僕らは大人になれずに 夜空の星屑 盗む事ばかり企んでいる〉というフレーズが出てきますよね。独特な表現だなって思うんですけど、〈夜空の星屑 盗む〉というのはどういうイメージなんですか?

にしな:「これは『手に入れる』とかっていうようなきらびやかなことじゃなくて、わたしたちが望んでいるのはそれぞれの、それぞれだけのことで。すごく変な言い方をすると『しょうもない』っていうか。宇宙から見た自分たちがちっぽけである、みたいなことと一緒で、たとえばこの曲で歌っている、夜、忍び込んでプールに金魚を放つぐらいの悪巧み? その延長線上にある夢を抱き続けているっていうか、そういうニュアンスで書いたんだと思います」

――うん。だから平たくいうと「夢を追いかけている」とか「理想を描く」とか、そういう言い方になるんだと思うんですけど、それを「盗む」「企む」っていう言葉を使うっていうのがすごく面白い。でもそのほうが にしなさんが追いかけているもの、思い描いていることに近いわけですよね。

にしな:「うん、そうですね。しょうもない悪巧みの延長で、ほしいものに一生懸命手を伸ばしている。それは今も変わらないと思います。たとえば好きな子に褒められたいとか、そういう気持ち。それに似た類です」

――あと、この曲もそうですけど、にしなさんって歌詞で空見上げたりとかしていることが多いですよね。

にしな:「ああ、空見上げがちです(笑)。好きなんですよね。なんか私、交差点とかも空抜けがいい交差点が好きで。私、丸い空をまだ見たことなくて、地平線の果てみたいな。みんな見たことないか。いびつな形しか見たことないじゃないですか。そこがすごい不思議っていうか、探してます、常に。360度空を見てみたいと思っていて。そういうのが好きなんです。人に尋ねたり、何かを見たりとか、歴史を振り返ったりっていうよりも、そういうことをしがち」

――だから、自分との会話なんでしょうね、空を見るというのは。

にしな:「はい。そんな気がします。私、脳内会話が結構多いというか、なんかぼーっとしているときほど会話してるんです。1回街歩いていて気づいたら1人で喋っているときがあって、自分で怖くなったんですけど(笑)」

――〈この先々に海は無くとも 誰も信じてはくれなくても〉とも書いていて。それぐらい、どうなるかはわからないという思いがあったんだと思うんです。でも実際には、にしなさんの音楽は多くの人に届いて、ワンマンライブでもたくさんのお客さんが集まって、という状況が今あるわけじゃないですか。その変化は今の にしなさんの音楽にどう影響を与えていますか?

にしな:「いや、でも、応援してくれる人がいてもいなくても、何を始めるにしても気持ちの部分では自分だけがいて、そこからすべてスタートで。自分が自分を信じられなくても、やり続けるには信じ続けなきゃいけないじゃないですか。その気持ちはずっと、どうなっても変わらなくて。だから環境が変わっていくことに対してその気持ちが変わっていくということはないんですけど、目の前に人が少しずつ増えてくれるたびに、自分自身のために音楽をやりたいっていう気持ちと一緒に、楽しんでもらいたいっていう気持ちだったり、少しでも日常の閉塞感から解き放たれる一瞬を自分が作り出せたらいいなっていう気持ちは強まっていくなあっていう気はします。曲を作るときもライブをするときも、自分だけのものなんだけど自分だけのものじゃなくなっていく感じがするし、そうしていきたいっていう気持ちが増えてきています」

――にしな の音楽には、やっぱり部屋で1人でギターを弾いてって歌っているっていう、その風景が焼き付いている感じがするんです。でもたとえば「FRIDAY KIDS CHINA TOWN」のような新しい曲はちょっと違うなと思うんですよね。あれは1人で弾き語りしているだけでは出てこないグルーヴやノリが曲になっている。

にしな:「確かに。でもあの曲も、歌詞を書く上で心配した部分とかはあったりしたんですけど、挑戦っていうほどの気持ちでもなくて。遊び半分みたいな感じで作っていった曲なんですよね」

――だから徐々にではあるし、行ったり来たりしながらなんだとは思いますけど、少しずつ変わってきてはいるんだよなあと。当たり前なんですけど。

にしな:「うん」

――『青藍遊泳』は〈ただ必死になって泳いでいく〉って終わるじゃないですか。当時は文字通り必死だったと思うし、今ももちろん必死なんだと思うんだけども、闇雲に泳いでる感じではなくなってきた? 自分が泳いでいる方向が見えてきた感覚はあったりします? あるいは、ちょっと泳ぎがうまくなったな、とか。

にしな:「どうなんだろうなあ。当時は闇雲だったけど、今も上手かどうかはわからない(笑)。常に周りに人がいて助けてくれて、進む方向を手助けしてくれるから成り立ってるけど、自分自身は変わらず変わらずワーッてバシャバシャしてる感じではあります」

――特にこの1年は本当にそうやって泳いできたって感じですよね、きっと。

にしな:「そうです。年齢で言うと、友達はみんな社会人1年目だったので、みんな必死に泳いでいたと思うんです。私も同じように、新しい環境の中で必死にバシャバシャしていたと思います。悩みも多かったし。でも、振り返ると病んでたなみたいなときはあるんですけど、今になって、なんか自分らしくなれたなあとも思います。もしかしたらずっと先に今を振り返ったときにも、今も苦しかったんだって思うかもしれないですけどね」

――そんな中でリリースされるのがセカンドアルバム『1999』です。まだ完成前なので具体的には話せないと思うんですけど、ファーストアルバムとは違う印象の作品になるでしょうね。

にしな:「うん。何が違うかは自分ではわからないし、前回も同じようなことを言っていたかもしれないですけど、にしなという……生物? それを多角的に見ていただける1枚になるなあっていう予感はしていますね。曲の生まれ年がみんな結構離れていたりもするから、自分自身が経てきた時間を感じるところもあるアルバムになるんじゃないかなって。『1999』というタイトルは1999年の『ノスタラダムスの大予言』から採ったんです。『明日世界が終わる』っていう状況になったときに、みんなどうやって過ごすんだろうなって思って。明日世界が終わると思って生きた方がいいって言われるけど、本当にそうやって生きるのって、無理じゃないですか。そういう日ってどんな気持ちになるんだろうって」

――なるほど。でももしかしたらそれに近い気持ちで、にしなさんは音楽をやってきたのかもしれないですよね。今やれることをやらないと後悔するぞっていう。曲を聴いていてもそれを感じるんですよ。今曲にしておかないと失われてしまう何かを一生懸命言葉とメロディにするタイプの人だなって。

にしな:「言われてみると確かに、たとえば『夜になって』とかはそういう思いで書いていました。やっぱり時間ってすごいから、気持ちも言葉も薄れていって忘れちゃうじゃないですか。それをちゃんと忘れない間に伝えたかったし、残したくて、考えたくて書いてた。振り返ってみるとそういうふうに曲を書いてきたんだなって思いますね」

――だから、セカンドアルバムもそうですし、そこから先出していく作品すべてがにしなのドキュメントになっていく。そういうアーティストだと思います。

にしな:「自分の人生を見せびらかしながらやってるって思ったら、相当ヤバいやつみたいですけど(笑)、でもそうなってしまう。不思議です。不思議な仕事に就いたなあと思います(笑)」

――「THE FIRST TAKE」の映像、拝見しました。やってみてどうでした?

にしな:「緊張しました(笑)。一発録りの良さもあるし、そこで本質が試される部分があることも十分理解した上で……もう1回やりたい」

――はははは。一発録りってそういうものなんでしょうね。

にしな:「でもいろいろな人に見てもらえると嬉しいです」

――さて、ついにセカンドアルバムが完成しました。手応えはどうですか?

にしな:「完成したっていう気持ちはもちろんあるんですけど、まだ実感が湧かないんですよね。まだ誰の手にも渡っていないから。でも無事に2枚目ができてよかったなってすごく思います。1枚目のときと比べて、曲を書いたタイミングもよりバラバラだし、いい意味で狭い世界を捉えている曲もあるし、1枚目以上に広く捉えて書いた曲もあるし。幅が広がったような気がします。活動をしてきて見える部分が広がったというのも曲を書くときの意識に影響を与えているんじゃないかなと思います。『odds and ends』はまだ世の中に曲を出していく前のタイミングで作っていたので、それとはきっと大きく違う」

――うん。デビューからここまで、にしなとして歩んできた時間がちゃんと作品になった、本当の意味での第一歩のようなアルバムですよね。「アイニコイ」や「ワンルーム」などはそれこそデビュー前からあった曲ですけど、それが今回収録されたのには何か理由があるんですか?

にしな:「自然な流れでこのタイミングになりました。『アイニコイ』も特に取っておいたというわけではないんですけど、にしなとしてバンドでもライブをするようになって、お客さんと一緒に楽しめる曲だなと思って。それで今回レコーディングしようということになりました」

――その「アイニコイ」が1曲目で、続けて「FRIDAY KIDS CHINA TOWN」が来るんですけど、この落差というか距離感がすごいですね。

にしな:「確かに言われてみると、『アイニコイ』はすごくストレートなバンドサウンドで、そこから摩訶不思議な『FRIDAY KIDS CHINA TOWN』になっていくというのは、すごく変化を感じる箇所だなって思います。でもアルバム全体を見渡してみると、自分が好きなものとかキュンとするところ? たとえば言葉に対してとか。それはタイミングによって特徴はあれど軸は変わらないのかなって思っていて。たとえば、歌詞で『こうこうこうで、だからこうです』みたいな簡潔な結果が出るわけではないんだけど、思っていることをなんとなく伝えるところとか。自分の人間味がやっぱり曲に出るので、なんかいつも遠回りして目的地にたどり着こうとするところが曲を見ているとあるなって思う。自分を知るというか、そういう感じはあるなと思います」

――「アイニコイ」も勢いはあるけど、そのままゴールしているかというとそういうわけではないですしね。「これが幸せだよね」とか「こういう状態だから今私満たされています」とか、そういうことはやっぱり書かないんだなって思うんですよね。以前も「幸せな状態は書けない」と言っていましたけど。

にしな:「うん。幸せな曲が書ける、とは今もやっぱり思えていないので。でもだんだん、書けないとも思わなくなってきてはいるんです。でもきれいごとは言えないようなところがすごくあって。今日の自分と明日の自分はやっぱり違うし、いつも背中合わせのものが一緒にいるので、自分はこういう生き方というか、コミュニケーションの取り方なんだろうなって。そういう自分の特徴の1つとして思うようになりました」

――「ワンルーム」も「モモ」もそうだと思うんですけど、このアルバムの曲たちって言い方を変えながらも孤独を歌っているような気がするんです。人との関わり合いとか愛もあるんだけれど、最終的にはやっぱりひとりというか。それは変わらないんですけど、ただ、その「ひとり」のあり方が変わってきた感じもする。

にしな:「ああ。今の自分で思うこととしては……やっぱり、人と人で100%で同じにはならない、同じ気持ちにはなれないっていうのは、やっぱり思うところではあります。それをすごく悲しいく思うのと同時に、だからこそすごく知りたいと思うし、人のことも好きになれるんだろうなっていうのも、今は思える。『odds and ends』のときのほうが孤独感とか寂しい気持ちを重視して書いていた気がするんですけど、今回の『1999』はそれがあった上でもう少し違う角度というか、だからこそ『こうだったらいい』とか『こうなんじゃないかな』っていう発想を持った自分が書いた曲たちだったりするんです。前作を出してライブができるようになって、聴いてくださる人と出会えて……自分の中だけじゃないところにより目をやるようになったというのがあるんだと思います。自分のことを思うときは悲しいと『悲しい』だけなんですけど、誰かの悲しみを見たときは、その悲しみを受け入れた上で、一緒に前に進みたい気持ちが生まれるというか」

――そうですよね。「モモ」とか、改めて見るとすごくポツンとしているというか、どこにも行けない感情がどこにも行けないまま終わるような曲だと思うけど、そうじゃない曲もたくさん生まれてきているし。ちなみに「モモ」はどういうふうに生まれた曲なんですか?

にしな:「これは、きっかけは音楽を始めたときからずっとお世話になっている方がいて。その方が 『“モモ”っていうぬいぐるみの曲を書いてよ』って言ってくださったんです。女の子が持っているぬいぐるみがモモっていう名前で、そんな曲があったらにしなに合うんじゃないかなって。『ああそうか』と思って、なんとなくその人の持つ雰囲気を交えながら書きました」

――この曲の主人公の子にとってのモモみたいな存在って、にしなさんにはいますか?

にしな:「ああ……心の中にはいる気がします。たとえば、お母さんとお父さんに言えなかったこととか、誰にも言っていないし口にも出していない気持ちを伝える相手が。たとえばコミュニケーションを取るときに、本当に伝えたいことを伝えるときは誤解を生みたくない気持ちが強すぎるのか、1人で対話をしてしまう。シミュレーションしてしまうんです。本当にちゃんと伝えなくちゃって思ったとき、本心をがんばって伝えるときはそれが結構多い気がします。くだらないことだったら普通に口に出せるんですけど、なんかそれがうまくできないときがあるんですよね」

――曲を書くときはどうですか?

にしな:「曲を書くときに『これを言っちゃいけない』とか思うことはまったくないです。だからそういう意味では、心の対話的に曲を書いているのかもしれない。心の中だったら何でも言えるから」

――さっきおっしゃったように、お客さんもいて、聴いてくれる人も増えてきて、伝わり方も変わったじゃないですか。それによって言葉選びや書くときに考えることは変わりましたか?

にしな:「ああ、なんかちょっと考えすぎちゃうというか、カジュアルにパーって書いて『これでいいか』って思えないときのほうが増えたのはあるかもしれないです。っていうのは、これを言っていいかっていうよりも『この曲をもっとよくするためにはこれでいいのか』みたいな気持ちが大きくなっているんです。それは良くも悪くもだと思うんですけど、立ち止まったり悩んだりっていうのはちょっと増えている気がします」

――つまりそれも、自分との対話で完結しないものになってきたっていうことですよね。最終的には外に出してコミュニケーションしないといけないというか、そういう意識になってきた。

にしな:「そうですね。そういう気がします」

――そういう変化も、変わらない部分もすべてを象徴しているのがアルバムの最後のタイトル曲「1999」だと思うんです。この曲はどういう思いで書いたんですか?

にしな:「これは、1999年にノストラダムスの大予言があって、私は生まれたばかりで全然覚えていないけど、地球が滅亡するっていうことを人が信じたり信じなかったりしたっていう現象があって。今は戦争があったり、ちょっと不思議な時代だけど、もし今『明日地球が滅亡するよ』とか『地球最後の日だよ』って人々が本当に心の底から信じたとしたら、戦争もきっと起こらないだろうなって。嫌いな人のことを考えるよりも、きっとみんなは好きな人のことを考えたりしたいことしたりしてその1日を過ごすんだろうなと思ったんです。ポジティブな意味で、地球最後の日みたいに今を過ごせたらいいなっていう気持ちでこの曲を書きました」

――すごく優しくて、すごく温かい曲ですよね。1999年、世界の破滅、人類の滅亡みたいなものを描いているんですけど、にしなさんの視点は人と人の間にある愛とか大切な人との関係性に向けられていて。幸せな風景は歌えないって言っていましたけど、この曲では「歌ってるじゃん」と思ったんです。でもそのためには世界が滅亡しないとダメなんだなとも思ったんですけど(笑)。

にしな:「確かに(笑)」

――アレンジも温かいですね。

にしな:「はい。歌詞もちゃんと温かみが伝わるものにしようという意識はあったんですけど、それ以上に音がその温かみとか優しさを引っ張っていけるものにしたいっていうのはすごく思っていて。それをアレンジャーさんに伝えながらすり合わせていきました。だからアレンジ、3回ぐらい作り直したんですよ。最初からすごくよかったんですけど、歌詞もまだ書いている途中で、歌詞ももっとポジティブに伝わるものにしたほうがいいかなとか悩んだんですけど、今のアレンジにたどり着いたときに、この温かさを持っているんだったら歌詞が伝わりすぎずともちゃんと曲が伝えたいことは、みんなを連れていってくれるんじゃないかなって思えました」

――で、この曲を聴いて思い出したんですけど、「夜になって」でも〈人間が絶滅する〉って歌っていたじゃないですか。そういう想像ってよくするんですか?

にしな:「結構すると思います(笑)。なんかSFみたいな話になっちゃうんですけど、もしかしたらこの世界は自分の脳内で全部作り上げているのかもしれない、みたいなことは考えたりするので。捉え方次第だなみたいに思っていろんなことを見ていますね」

――それは哲学ですね。哲学ついでにちょっと話を広げると、脳内で出来上がっているものだとしたら、そのわりにはこの世界は不自由じゃないですか。たとえば「夜になって」で人類の絶滅を願うのは、そうならないと2人は許されないんだよねっていうことがわかっているからだと思うんですよね。

にしな:「そうですね……なんか、ちょっと違うかもしれないんですけど、私、曲を書くときに、使いたくないけど〈永遠〉っていうワードを使いがちなんです。それは自分の中にあるコンプレックスだなって最近すごく思うんですけど。たとえば愛についても、親子愛とかはきっと永遠だなって思う気持ちがありつつ、でもそうじゃない愛情もきっとあるんだよなっていうのが嫌っていうか。それが書くときに出がちなんです」

――愛は永遠だと思いたいのに、永遠じゃない愛が存在していることを知ってしまっているということが嫌だということ?

にしな:「そういう感じですね。そういうものがあるなっていうのが最近、すごく……やっぱり何かを作る人って、ちょっといびつなところがあるじゃないですか(笑)。そこなのかなって思うんですけど。永遠であってほしいけど現実はそうじゃない……かもしれないって思っている。だから〈永遠〉言葉を使うのも本当はちょっと嫌だけど、歌いがちになっちゃう。描こうとするとそういう言葉がぴったりハマるんです」

――言い換えようがない言葉として出てくるということですよね。それをある意味でずっと追い求めているというか。「青藍遊泳」でも〈永遠に僕は大人になれずに 夜空の星屑 盗む事ばかり企んでいる〉。実際は大人になってしまうんだけど、〈永遠〉のほうを求めてしまう。

にしな:「なんか、最後まで行ってみないと結局わからないじゃないですか。たとえば恋愛でも、一時的に別れたとしても最後どうなっているかは誰にもわからないし、大人になっているのかどうかも結局よくわからないし。でも一時的な感情でいうと『ずっとずっとそうだと思う』っていう。その気持ちで〈永遠〉という言葉を使っているのかもしれないです」

――その「最後にならないとわからない」の「最後」を書いたのがまさに「1999」だと思うんです。そういえばこの曲でも〈永遠〉って言っていますよね。〈小さな街で 2 人は永遠に変わる あのよの続きをしようよ〉。すごい不思議な言葉だなと思うんです。〈あのよの続き〉ってなんだろう、って。

にしな:「ここは〈あの夜の続き〉という意味と、〈あの世の続き〉という意味の滅亡した先に本当にみんなの意識がないのかっていうのも行ってみないとわからないから。もしかしたら滅亡してもっと幸せになるかもしれないし。そういう意味で、ここは〈あのよの続きをしようよ〉っていう言葉を選びました」

――だからこれは地球最後の日を描いているんけど、実は終わりじゃなくて始まりを書いている曲なんですよね。

にしな:「ああ、そうですね。そうだと嬉しいです。最後の日っていうテーマではあるんですけど、またこれもSFみたいですけど、たとえば死んじゃった翌日どうなっているのかわからないから、その続きを知りたい気持ちもあるし、穏やかに、眠るように死んだとして、その先はもっと幸せかもしれないし。果てしなく温かくなっていくような感じの曲にはしたいなと思っていました。愛情たっぷりになったらいいなとは思って書きました」

――そういう、その先への期待みたいなものがやっぱりにしなさんの中にはあるんだなと思います。このアルバムのどの曲を聴いていても、今はこんな感じだけど、「これ」じゃない世界っていうのはあると想像してもいいんじゃない?みたいな。

にしな:「やっぱり物事捉え方次第だなってすごい思っているんです。昨日悲しかったことが、自分の考え方が1つ変わるだけですごくハッピーになったりとか、何か1個小さなことが変わっただけで全然違う景色が広がるというのは全然ありえることだって思うので、そういう考え方が出ているのかもしれない。どっちかっていうと私もネガティブなので、自分自身に言ってあげたいという意味でも、そういうふうに書けたらいいなって思います」

――ノストラダムスの大予言が流行ったときも、みんな意外とワクワクしていたんですよ。何か起きて変わるかもしれないって。だから意外とこのタイトルはにしなというアーティストの本質を射抜いている気がしますし、今の時代にもマッチしている気がします。

にしな:「このタイトルは、アルバムはまだ完成していない段階でこれをタイトルにしようと思ったんです。他も一応考えてはいたんですけど浮かばなかった。かっこつけないところで言うと見た目もいいし、アルバムを象徴する言葉になると思ったんです。今は1999年じゃないけど、ちゃんと今の空気も混じってる作品になっていたらいいなと思います」

Interviewed by Tomohiro Ogawa